ぜんぶ、すてれば 感想
心配事の9割は起こらない 感想
こんにちは、サーカスです。
読んだ本の紹介をしていきたいと思います。
今日はこの「心配事の9割は起こらない」です。
禅の教えを元に物事の捉え方を考える、そんな特徴の本です。
禅に限らず、今回登場してきたようなものの考え方は突き詰めるとゴールはある程度一緒になってくるのかな、というのが感想です。
特に、私はアドラーの思想を勉強中なのですが、似通ったものがとても多かったのが印象的でした。
きっとどこの世界にも言葉は違っても言葉の意味の核は同じ、そういう事は往々にあり得るのかなと思いました。
感想 透明のゆりかご
一時期この漫画を紹介するバナー広告をあちらこちらで見かけ、読みたいという気持ちがありつつも今日まで読まずにいました。
今回読む機会がありましたので、読ませてもらいました。
産婦人科を舞台にした漫画で、そこで繰り広げられる命のドラマを題材にしています。
また1990年代の産婦人科を舞台にしているので、今の時代とは少し違う部分もあるのではと思いますが、とても考えさせられる作品になっています。
私は現在1児の父親で、生まれるまでに色々なハプニングがありましたが、現在は健やかに成長していると思います。
しかし私の子供が元気に成長していく中で、この世界には中絶や望まない妊娠をする女性がいたり、逆に子供が欲しくても産むことが難しい、出来ない方もいらっしゃいます。
私は常々人が一人自立して生きることは並大抵のことではないと考えています。
生きることは当たり前ではなく、物凄い奇跡の上に成り立っていることだと思います。
時代やその当時の環境や価値観、医療がどれほど発展しているか、その子供が生まれた親の経済状況や心理状況。全てが満たされていても生きていくことのできない子もいて、それならば当然それらが全く整っていない状況に生まれてしまった子供はとても生きていくことが難しくなってしまいます。
生きることは当たり前ではない、と言うことを私はこの漫画を読んで強く感じました。
今こうして生きている、生きていられる状況になったのは数々の自分でははっきりと感じることのできない事柄のおかげだと思います。
人一人が生きることはすごいこと、と話す方は多いでしょう。
それは紛れもない事実でありますが、そう感じていない人にとってはそれは事実ではないのだと思います。
それを実感できるようになるにはやはりそれを認識できるまでに生きて、学び、知識だけではなく体験を伴わなくてはその言葉の本当の意味を理解するには至らないと思います。
さらにこのような題材をテーマにした漫画を読む人たちは元々こういったことへの関心が高い人が読まれていると思います。
しかし、本当にこのような漫画を読む必要のある人は関心が高い人ではなく、このような世界を全く知らない、無関心の人だと私は思います。
関心の高い人だけが読んでいるようではこのような問題はなかなか解決していきません。
無自覚の内に自分が加害者にも被害者にもなり得るからです。
問題と言うのは基本的に「それが問題だ」と認識されなければ問題になることはありません。
大多数の人に関心を向けられないことはそこに発生している問題はないも同然なのです。
そして関心のない事柄を関心のない大多数の人に伝えるのは物凄く難しいことです。
関心がないのだからそもそも目に入らないので、その問題を認識することもないのです。
けれどこのような漫画があることで少しでも無関心の人たちが興味を持ち、その世界を知り、自分にできることをやってくれる、そのことを期待して私はこの感想を書きたいと思います。
少しでもこの漫画に興味を持っていただけたら幸いです。
感想 あまちんは自称♂
アマゾンprimeを漁っていたところこちらの漫画が1巻だけ無料で読むことができたので読んでみました。
可愛い外見の男の子とその幼馴染の話で、私は普通に楽しんで読むことができました。
でも、これってBL本に該当するのでしょうか。
男性同士の同性愛を題材にしたジャンルをBLと呼んだりします。今はすっかりとこの言葉が定着したように思えます。
BLと同じような言葉に男の娘と言うものがあります。
私的には男の娘という言葉は成人男性のエロ本に出てくる言葉で、BLは腐女子の方たちの、つまり一般的には女性の方が使われる言葉なのかと思います。
広義の意味で言えばこの漫画はBL分類されて、BLの中に男の娘と言うジャンルがあるというのが正確でしょうか。
男の娘は受け側になることが多く、BLは男性同士の絡みそのものを描くので、やはりBLと言う広い定義の中に男の子と言うジャンルがあるのが正解な気がします。
まぁ、最終的にはその本を読んだ人がどのように判断するかと言う相対的なものになっていくと思います。
皆さんはこちらの漫画をどのように判断しますか?
BLですか?それとも男の娘?
感想 「育ちがいい人」だけが知っていること
女性向けに販売されている本でしたが、興味があったので購入してみました。
書かれている内容は当然かな、と思うものから、ここまでやれたら凄いな、と思うものまでありました。
この本のポイントは二つ。一つは相手に違和感を持たせない振る舞いが大切だということ、もう一つは自他ともに思いやる心が大切だということです。
違和感と言うのは自分の行動や言葉が相手にとって違和感として受け取られる(何かそれ違うんじゃない、と思われる)ことで、その違和感を持たれないようにするのが私的には「育ちが良い」と言うことなのかなと思いました。
本書でも述べているようにマナーと言うものにおおよそのルールは決まっていますが、明確には決まってはいないそうです。
ここで大切なのは相手を不快にさせない、失礼なことをしないという配慮であり、違和感を持たせないような心構えではないのか、と私は考えました。
顔見知りではなくても会釈をする、受け渡しは両手でする、ペンや箸をしっかりと握れているなど、はっきり言ってしまえばできていなくても他者の迷惑にはならない行為だと思います。
しかし、それらのマナーが出来ている/いないでは与える印象が違うのもまた事実です。
神経質と評価する人もいるでしょう。
しかし、もし自分が気に入られて欲しい立場、タイトルにあるように「育ちがいい人」と思われたいのであれば、相手に違和感を持たれない取り組みをすることには大いに価値があると思います。
また「育ちが良い」とされる人には自他への思いやりがあると本書を読んで感じました。
セルフコンパッションと言う考え方がありますが、まさにそれで、他者への思いやりと同時に、自分を思いやることが「育ちが良い」と言うことだと私は感じました。
一つ一つに仕草や、細部にまで目を通すのはそれだけ自分を大切に思っているということであり、自分を大切に思える人は他者にも優しさや思いやりを示すことができると思います。
自分がこうされたら嬉しいということを知っているからこそ、他者にもそうして上げたいという気持ちが芽生えると思うからです。
自分を大切にできなかったり、思いやりが欠けている人は他者にも同じことを強要します。そのような人が「育ちのいいひと」と思われることはないと思います。
もし、「育ちのいいひと」と思われたい、思われた方がより多くのメリットを享受できる、自分をそういう風に変えたいと思われる方は本書に書かれていることに挑戦することは十分に価値のあることだと思います。
私も「違和感を持たれない」「自他への思いやり」をより意識していきたいと思いました。
感想 ケーキの切れない非行少年たち
この本を手に取ったきっかけはこのタイトルに加え、帯についていたイラストでした。
ケーキを均等に三つに切り分けてくださいと言う質問の回答が乗っているイラストでした。
上記の図が非行少年が三等分したケーキの図であり、見ていただければわかると思いますが、私はとても衝撃を受けました。
非行少年にとっては世界は歪んで見えている、その言葉の真意を探るためにこの本を購入するに至りました。
非行少年が何故非行に走るのか、何故反省しないのかと言う問いに対して筆者の答えは「その能力がないから」と言うものでした。
非行少年に共通する特徴があり、認知機能の弱さ、感情統制の弱さ、融通の利かなさ、不適切な自己評価、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さを上げています。
それら人間が成長する過程の中で獲得できる基礎的な能力が障害によって獲得できずにいるせいで様々な問題を引き起こしているということでした。
そしてこのような少年たちは日常生活を送る能力は人並みにあるため問題が浮上してこないと言います。
問題が浮上せず、障害が認知されないために健常者と同じ扱いをされ、健常者である以上人並みにできないことで人から非難されたり、間違った評価をされてしまう。サボっているや手を抜いているなど障害の影響で出来ていないものを性格や育て方の問題と捉えられてしまうのです。
何かが人並みにできないということは人並みにできるはずの能力が性格や生育環境のせいで欠如しているのではなく、そもそも備わっていないからと言う可能性を考えなくてはいけません。
そもそも備わっていないのだからできるはずがないのです。
私はよくペンギンとハトを用いて説明することがあります。
ハトは空を飛べますが、ペンギンは空を飛べません。その代わりハトにはできない海の中を自由に動く能力を持っています。
もし、ハトの群れの中にペンギンがいて、ペンギンに空を飛ぶように言ったとしても意味がないことが皆さんにはお分かりいただけるかと思います。
ペンギンにはそもそも空を飛ぶ能力が備わっていないので空を飛ぶことができないのです。
では、もし自分がハトだとして、そのペンギンの面倒を見なくてはいけないとなったらどうでしょう。
ペンギンは鳥類で、羽もあります。そうするとペンギンにも飛ぶことを求めるのではないでしょうか。だって鳥で、羽があるのだから飛べると思って当然でしょう。
しかし、ペンギンは勿論のこと飛べません。
その様子を見たハトは何と思うでしょうか。
ハトはペンギンが空を飛べるものだと疑っていません。なので段々とこう思っていくはずです。「この黒いハトは同じ鳥で羽もあるのに全く飛ぼうとしない。きっと飛ぶのが億劫でサボっているに違いない」と。
これと同じことが非行少年たちに対して行われているのです。
見た目は同じ、分類上は人間で、健常者として扱われている。
しかし、見た目は同じでも、能力に差があります。そうすると人並み出来ないことに対して健常者はその出来ないことを非難します。
能力が元々備わっているかどうかを考えず、出来ないのはサボっている、怠けているだけだという理由をでっちあげてしまうのです。
できないのは能力が欠如しているのではなく備わっていないのに、です。
さらにこの問題を複雑にしているのは私は目に見えないということです。
ペンギンとハトの例えでは見る人からすれば違いは明らかなので、ハトの群れでなく、北極の海に連れて行ってあげると言った支援ができると思います。
ハトは飛べるが、ペンギンは海を泳ぐ生き物だと知っているので、ペンギンに適した環境を用意して上げることができます。
しかし非行少年と呼ばれる子供たちの場合は違います。
人間は能力の欠如を見た目からは判断できません。
なので、健常者として扱ってしまう。本当は何らかの能力が備わっていないか、著しく弱いのに、普通の一般人として扱ってしまうのです。
何故なら人間のそのような機能的な部分は外側から見ることができないからです。
ペンギンに空を飛ぶことを強要しても意味はありません。
それどころかお互いに不幸な状態になります。
ペンギンに空を飛ぶことを教えているハトも、必死に飛ぼうとしているペンギンも、お互い不幸です。どれだけ教えようとも能力がそもそもないのでどれだけ時間をかけても飛ぶことはないからです。
では、どうすればよいでしょうか。
私はまず見極めることが必要だと思います。
そしてこれができればおおよその問題は解決すると思います。
しかし、この問題が完全に解決するのはとても難しいということも理解しています。
2つ大きな問題があると思います。
まず外側が同じ人間の中身である能力をどうやれば判別できるのかと言う問題です。
今は様々な人間の能力を図るテストがありますが、それでも現状これだけの問題が解決せずにいるということはそのテストは有効であるとはいいがたいと思います。
それにそのテストを判断することもまた難しいでしょう。
そして何かしら能力が備わっていない、著しく弱い人たちにどのように支援をしていけばいいのかと言う問題もあります。
今の学校教育では個別の支援は難しく、また金銭的に余裕のない人が軽度の障害に気づかれずに非行に走ってしまうという現状があります。
例え障害の有無を判別しても、その子にとって一番良い環境を提供できるとは限らないのです。ハトの群れの中にペンギンを見つけたとしても海に連れていくことが難しい状況です。
それでも私に、個人にできることはあるでしょうか。
私は人と接する仕事をしていますが、このような問題を扱う仕事をしていません。
そのような私にも何かできることはあるでしょうか。
そのようなことを考えさせられる一冊だったと思います。
感想 AI VS. 教科書が読めない子供たち
こんにちは。サーカスです。
私は今後AIが発展していくと思っていますが、AIに関連した本を読んでいなかったので、今回はこちらの「AI vs. 教科書が読めない子供たち」を読みましたので感想を述べたいと思います。
私もこの本を読み始めるまではAIに過度に期待を寄せる人物の一人でした。AIが今後ますます発展していき、シンギュラリティを起こしたり、世界を抜本的委変革してしまうのではないか、例えばターミネーターのような世界を生み出すのではないかとある種の妄想をしていました。
しかしこの本を読んで、そのような未来はそこまで実現可能ではないということが良く理解することができました。
AIとはただの計算機(四則演算をするだけの機械)であり、それ以上のことはできない、と。言われてみれば当たり前のことです。
私がAIがこれから発展していくだろうと、今の人間の想像もつかないような世界を生み出すのではないかと思った経緯にはコンピューターが囲碁の名人を打ち破ったことがきっかけだったと思います。
その頃は囲碁はまだまだコンピューターが人に勝つのは難しいと言われていたゲームで、そのゲームで勝ったことによって私はAIが人間を上回る能力をどんどんと獲得していくだろうと推測しました。
AIの発展によってもたらされるのは豊かさだけではないとこの時から感じていましたが、それでも大部分がAIにとってかわられる可能性を私は肌で感じたのです。
けれどAIはやはりただの計算機だ、と言うことがこの本を読んでよくわかります。
AIはただの計算機で、前提条件がしっかり整ったもの以外にはまだまだ適用が難しいということが分かりました。
例えば読解問題。
「東ロボくん」と言うAIを使い、東大合格を目指すというプロジェクトの中でどれだけ学習させてもうまくいっていないのがこの分野だそうです。
この文節で印象的だったのは「万を教えて1を学ぶのがAI」という文章です。
人はおおよそ文脈を判断して、大体こういうことを言っているんだなと推測することができますが、AIにはそれができないという。
また前提条件の違う事柄、試験で出てくるようなお手本のような会話と、普段友達とやり取りする時に話すような会話では私たち人間からすればおおよそ似ている部分を読み取り、変換することが可能ですが、AIによっては全く違う文章のように見えるということです。
前提条件がしっかり整っている分野(例えば数学)においてはAIはますます進歩すると私はそう感じました。現に「東ロボくん」のは既にMARCHに合格するほどのレベルに達しているそうです。
さらに筆者はAIを研究していく中で現在の日本人の基礎読解力の低下に著しい危機感を感じていると話します。
私も掲載されている結果を見て驚きました。
約半数の、酷ければ4分の1以下の正解率しかありません。
皆さんはどんなに難しい問題が出されたのかとお思いでしょうが、基礎読解力と銘打っているように、難しい感じが出てくることもなければ、難問の数学のように複雑な計算が必要でもありません。
しっかりと読んでいれば答えられるような問題でこれだけ多くの人が間違うことに私も危機感を抱きました。
また筆者は記者に「正解率が半数を超えているのではダメですか?」と言う質問を受け、驚いたと言います。
それもそのはずで、基礎的な読解力がコイントスの確立とほぼ同じと言うことが良いと言えるはずがありません。
つまり、人は人の話を2分の1の確率で読み間違えるということです。それが深刻でないはずがありません。
AIがシンギュラリティを起こす可能性は低いにしても、AIはますます発展していく分野であり、現代人の仕事を次々と奪っていく可能性は高いでしょう。
その時AIが苦手とする読解力と言う分野を既に苦手としている人が今後どうなるか、悲惨な未来が目に浮かびます。
AIにとってかわられるような分野を人間がいつまでもやっている必要はないと思います。
代わりにAIにはまだまだ難しいとされる分野の能力を伸ばしていかなければ、今後仕事を失ったり、低賃金で働かざるを得ない環境になってくると思います。
私は今回この本を読み、改めて自分の基礎読解力を鍛えようと思いました。
自己成長を続けることは何よりもリスクを回避する一番の方法だと思うからです。